小田原市栢山にある「和菓子うめぞの」は、1970年創業。季節の生菓子や贈答品をつくる、町の和菓子店だ。二代目の勝俣統代表は、店に入る注文を待つだけでなく、頼まれれば学校や地域の催しへ出向き、企業や行政とも仕事をしてきた。

包装紙を地域の絵本作家とつくり直す。学生と地元産の果物を使った商品を考える。子どもたちの前で和菓子づくりを教える。工場では、観光客が練り切りに触れる時間をつくる。やっていることだけを並べると、昔ながらの和菓子店らしさから少しずつ外れて見える。

けれど、勝俣代表が変えたいのは家業そのものではない。和菓子店を残すために、和菓子の届け方を変える。半世紀を超えて続く店の暖簾は、昔と同じ商売にとどまらないことで守られてきた。

家業へ戻り、二代目になった

勝俣代表は小田原で育ち、地元の高校を卒業した後、東京の専門学校へ進んだ。都内の和菓子店で修業し、家業へ戻った。父の代から続く店を引き継いだのは30代の頃。経営に立つようになってからも、製造の現場を離れたわけではない。

店には、日々さまざまな注文が入る。季節の生菓子や手土産だけでなく、祝い事、行事、企業や地域団体の催しに合わせたものもある。決まった商品を同じ形で売り続けるより、その時々の相手に合わせて考える仕事が多い。

技術を守るだけなら、修業で覚えた型を繰り返せばいい。ところが、店を続けるには、誰がどんな時に和菓子を必要としているのかまで見なければならない。勝俣代表が継いだのは職人の仕事であり、同時に、地域の変化を受け止める商売だった。

高齢化を追い風にするはずだった

若い頃の勝俣代表は、高齢化が進めば、年配層に親しまれてきた和菓子の需要も伸びるのではないかと考えた。老人ホームとの取引を増やした時期もあった。

見込みは、長くは続かなかった。専門業者が入り、価格競争が起き、大口の取引だけを頼りにする難しさが見えてきた。和菓子を好む人が多い市場だからといって、町の店へそのまま注文が集まるわけではない。

この経験で、経営の前提を一度決めたままにしなくなった。環境が変われば、売り方も、付き合う相手も変える。昨日まで成り立っていた筋書きを、今日も正しいとは思い込まない。その身軽さは、後の取り組みにも表れている。

頼まれごとが、店を外へ連れ出した

「フットワークが軽いとは、昔からよく言われます」

勝俣代表は、行政や地域団体、教育機関から声がかかると、まず何ができるかを考えてきた。講座や体験、地域の催し。店頭販売とは違う仕事でも、和菓子に触れてもらえる機会なら現場へ出る。

最初から事業領域を広げる計画があったわけではない。一つの依頼に応えると、そこで別の人と知り合い、次の相談が届く。その繰り返しで、和菓子うめぞのの仕事は店の外へ伸びていった。

ただ頼まれごとを断らないのではない。依頼の向こうにいる人を見て、自分たちの技術で何ができるかを考える。人との出会いを、新しい仕事の入口に変えてきた

値段は、生活者の感覚から離さない

和菓子づくり体験を始める時も、勝俣代表が気にしたのは、地域の家族や旅行者が無理なく参加できる価格だった。特別な技術を教えるからといって、必要以上に高くはしない。

安さを競いたいわけではない。材料と手間に見合う対価を受け取りながら、「ちょっとやってみよう」と思える距離に置く。高級品として構えられるより、まず触れてもらうことを選んでいる。

和菓子は、季節や行事と結びついた身近な食べ物でもある。その入口まで遠くしてしまえば、次の世代へ届かない。生活者の感覚から離れないことも、文化を残すための条件なのだ。

「その人、その場」に合わせてつくる

コンビニや量販店へ行けば、いつでも同じ商品を買える。それは便利で、町の和菓子店が同じ土俵で競うものではないと勝俣代表は考えている。

寺院や神社の行事、幼稚園の催し、企業の入社や退職の節目。地域の個人店には、用途も数も意匠も少しずつ違う注文が来る。相手の話を聞き、その場に合う形へ整える。大量流通では拾いにくい細かな希望こそ、店の腕が生きる仕事だ。

取材で主力商品の一つとして挙げたのが、「金太郎の焼きチョコモナカ」だった。地域になじみのある金太郎をモチーフに、モナカとチョコレートを組み合わせた商品だ。伝統的な材料や形に閉じず、土地の物語と新しい食べ方を一つにする。ここにも、うめぞのらしい仕事の組み立て方が見える。

真似できないのは、商品より人のつながり

似た菓子をつくることはできる。価格や形を寄せることもできる。それでも簡単には移せないものとして、勝俣代表は「人とのつながり」を挙げる。

取引先、行政、学校、地域の生産者、催しを運営する人たち。仕事で関わった相手が、別の人を連れてくる。相談に応えた記憶が残り、数年後にまた声がかかる。名簿に並ぶ件数ではなく、実際に一緒に手を動かした関係だ。

商品だけを見れば、競合は全国にいる。しかし、小田原と県西地域で積み重ねた関係まで含めると、同じ店はつくれない。長く商売を続けてきた時間は、目に見えない資産になっている。

地域の人と、一緒につくる

店の包装紙には、金太郎や酒匂川、相模湾、アジサイなど、県西地域の風景が描かれている。地元の絵本作家とつくったものだ。菓子を包む紙を、地域の話が始まるきっかけに変えた。

商品づくりでも、店の中だけで完結しない。小田原市の取り組みでは、関東学院大学と、小田原産のみかんを使った「みかん米粉どら焼き」「みかん焼きホワイトチョコ最中」を形にしている。素材を仕入れるだけではなく、学生や地域のつくり手と一緒に、売り方まで考える。

地元産だから価値がある、とラベルを貼るだけでは弱い。誰が育て、誰が考え、どんな会話から生まれたのか。地域の素材と、地域の人の両方を商品に宿す。それが、うめぞのの地域連携だ。

和菓子を「売る」から、つくる時間を届けるへ

以前は、たくさんつくり、たくさん売ることに重きを置いていた。だが、原材料費、人件費、販売手数料を積み上げると、数量が増えればそのまま利益が残るとは限らない。

そこで比重を高めてきたのが、和菓子づくり体験だった。参加者は職人の説明を聞きながら、練り切りを自分の手で仕上げる。完成した菓子だけでなく、色を選び、形を整え、季節の意匠に触れる時間も持ち帰る。

体験型事業は、単に別の売上をつくるためのものではない。店頭で完成品を見るだけだった人が、和菓子の手触りや難しさを知る。商品に値段を付ける商売から、和菓子に向き合う時間にも価値をつくる商売へ。店が売っているものの幅そのものを広げた。

幼稚園から、旅の途中の人まで

和菓子づくり体験は、子ども向けの地域企画から学校、企業や団体の催しへ広がってきた。2025年には、道の駅「足柄・金太郎のふるさと」の催しでも、出張の和菓子体験教室を開いている。

工場での体験は、旅行予約サイトからも申し込める。小さな子どもを連れた家族、友人同士、世代の違う家族が同じ台を囲む。上手につくることより、自分の手で一つ仕上げた記憶が残る。

勝俣代表が次に見ているのは、箱根や鎌倉を訪れる旅行者、そして海外から来る人たちだ。すでに行っている仕事と、これから増やしたい取り組みは分けて考えながら、和菓子を知る入口を観光の中へつくろうとしている。

日本文化を、説明できる形にする

和菓子は、季節を色や形で表し、祝い事や節目に寄り添ってきた。日本で暮らしていれば何となく知っていることも、初めて触れる人には、手を動かす体験がいちばん早い。

目の前の餡が花の形へ変わっていく。なぜこの色なのか、なぜこの季節にこの意匠なのかを聞く。言葉だけで文化を説明するより、つくったものを食べるところまで含めた方が記憶に残る。

和菓子づくり体験は、新しい事業であると同時に、古くからある仕事を説明し直す場でもある。残したい文化を、次の世代が参加できる形へ変える。勝俣代表にとって、守ることと変えることは反対ではない。

大人数が、同じ台を囲める場所へ

将来は、さらに多くの人が一度に和菓子づくりを体験できる場所もつくりたいと考えている。短期間で実現できる計画ではない。それでも、店で菓子を買うだけでは出会えなかった人たちが、同じ台を囲む光景を思い描いている。

新しいヒット商品もつくりたい。地域との連携も続けたい。どちらも、自分たちだけで完成させるとは考えていない。

「一緒に何かやってみたい人がいたら、声をかけてほしい」

勝俣代表の仕事は、頼まれごとから広がってきた。老舗を守るために、老舗の内側だけへ閉じこもらない。次の相談を受け取れるよう、これからも店の扉を外へ向けて開いている。

編集後記

勝俣代表は、変化を大げさな言葉で語らない。行政から声がかかった。学校から頼まれた。地域の人と知り合った。そのたびに現場へ出て、できることを一つ増やしてきた。

和菓子店を残すために選んだのは、昔と同じ仕事を小さく守ることではなかった。個別の注文を受け、地域の人と商品をつくり、和菓子を体験として届ける。店の外へ出るほど、家業の技術は別の形で必要とされていく。

商品は似せられても、積み重ねた人との関係は真似しにくい。半世紀を超える暖簾を次へ渡す力は、過去の長さだけではなく、次の依頼に応えようとする身軽さの中にある。

店舗概要

店名和菓子うめぞの
代表者勝俣 統
創業1970年
所在地〒250-0852 神奈川県小田原市栢山3303
事業概要和菓子の製造・販売、特別注文、和菓子づくり体験、地域連携による商品開発
公式Instagram@odawaraumezono
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